『好き』の変遷~その2
昨日とはうって変わって晴天のフランスよりこんにちは。Gon.です。空気が気持ちよいです。
さて、前回(『好き』の変遷~その1)に引き続きまして、自分勝手な『好き』の歴史を綴っていきたいと思います。
そもそも『好き』なんて、主観以外の何ものでもなくて、興味のない人にとっては全く関係ないもの。わたしも己の心の琴線に触れないものには、全くといって良いほど反応いたしません。ただ、これだけこの世界に人がおりますと、とんでもなくニッチな『好き』のツボが、かすったり、はまったり、重なったりすることが時としてある訳でありまして。そんなときに発生する、「うっそぉ!!!それ、わかる、分かる!ウケる~!!!」は、時に人生のマイルストーン的、特別な瞬間になったりしますよね。
・・・と、わたしは思っております。
それに、何よりも『好き』との出会いは、己にとって時に人生のターニングポイントとなるもの。
hideちゃんに出会わなければ、私は東京へ出よう!なんて思わなかったですし、Never too lateも真実、でも、決して取り返しのつかないこともあることを、消えない心の痛みとともに知ることもなかったでしょう。
ゴールデンボンバーをエルメスのバーキンがいくつも買えるような(ホントにねぇ・・・)大枚はたいて、心のままに追いかけなければ、やりきるとはどういうことなのか分からなかったでしょうし、すっきりすっぱりさっぱりとヨーロッパに来ることはできなかったのかな・・・などと。
『好き』の変遷~つづき
さて、 ゴールデンボンバーに狂い咲きだった、という話から少々時は戻りまして、働き始めて、突然、嵐のごとく好きになったもの。それは、『ボクシング』でした。
そもそも格闘技と呼ばれるものが大嫌いでして、当時(今も?知りません!)大みそかのK-1選ですら見たことがない。ミルコ・クロコップって誰だよ?(辛うじて、ボブ・サップは知っている笑)というレベル。とにもかくにも、人を殴ったり蹴ったり、血を流したり・・・その意味が分からず、見るに堪えませんでした。
ところがどっこい(古っ)、同僚に本当に嫌々無理やり連れていかれた(ひどい言いぐさ・・・)、後楽園ホールにて(チケットだって買ってもらいました)、ボクシングなるものを生まれて初めて見まして。
聞くのと見るのは、そりゃもう大違い!己の鍛え上げた肉体(技)と拳のみ(ここ、ポイントです!)で戦う。そのシンプルさと美しさに、もう心をスパッと射抜かれました。単純なんです、そうなんです!でも、ハマるととことんですので、それからは平日の仕事帰りにも一人で試合を見に行くようになっていました笑。ちゃんとチケットボックス前に並んで当日券を購入して。ボクシング・マガジンなどを買ってお勉強して、試合をラウンド毎に点数付けたりして、ね。それはまた・・・別のおはなし(森本レオ風♪)ですが。
さてさて、このあたりまでが過去の『好き』のご紹介です。
過去ってなんだか悲しい響きですが、もちろん、今も大切な思い出のあるものばかりで、興味がなくなったものは一つもありません。上書き保存などされない、私の人生フォルダに一つひとつ名前を付けて保存してある大切なものたちばかりです。
でも、『好き』って燃え上がるような恋のように、寝ても覚めてもそれ一色になる好きと、愛のように時に地味で、でも着実に自分で積み重ねていかないといけないものがありません?過去の好きとは、その時の気持ちや本気度は嘘じゃない、でも、時の流れと共に、今はもう、当時と同じ情熱では追いかけられない、熱量では語れないものたちのこと。
それから、これは私の体験からなのですが、『過去になる好き』は、己の外側にあることが多い。対象が他人ということです。当たり前のことかもしれないのですが、こんなこともどこかでゆっくり話せればなぁと思います。
現在の『好き』
では、現在はどうなのか、と申しますと、地味に、長い目で、でも、確実に一歩一歩、愛でたいもの、愛でているものが『ファッション』と『語学』になります。えっ?突然、普通になったって?笑。
いえ、ファッションとあなどることなかれ!
もともと、ファッションやオシャレは人並みに好きで、いや、少々中毒気味になっていた時もあるのですが、私が今、極めようとしているのは、服や小物にときめくのではなく、それを着ている自分にときめく、流行のファッションや誰かがしているオシャレに自分をはめ込むのではなく、自分へたっぷり愛情を注ぎ、自分という器を活かしきって装うを楽しむ『自分軸ファッション』なのです!
これを学び、実践し始めてからは、買い物の仕方も、選ぶものも変わりましたし、『アクセサリー作り』(リメイク)なども始めまして。絶賛実践中のこちら、実践を交えて語っていけたらと思います。
そうそう、フランスで発見した、私の好きな、善きものたちもご紹介できれば!
それから、『語学』。
そもそも、アメリカからの文化(音楽、映画など)の影響は大きく、とにかく格好よく見えたんです、英語を話す人たちと、あのクリアな発音が(身も蓋もなし笑)。でも、これがホントの始まり。そして、ずっと心のどこかに漠然と、海の外(もっと広い世界)に行ってみたいなという思いがありました。広い世界に出れば、(表現し辛い、生きづらさのような、不満、不平、閉塞感、毎日が同じことの繰り返しなど・・・ネガティブな思考ばかりではないですが、そんなものが)何かきっと変わるんだろうと、信じていたのですよね。これもある意味、一理あるけれども、体験からいうと、ちょっと違うなと思ったりもしています。こんなことも、お話していきたいですね。
今は、海外に住み、英語で仕事もしているのですが、その英語をきちんと学びなおしたのは、実は仕事を始めてから。留学の経験などなく(かぶれだけど、意気地なしでしたから)、英語の基礎は、全部日本で学んだ、ドメ子です(Domesticなお子さんという意味です・・・)!
恐々と、自分の英語が本当に伝わるのか手探りで話始めた時を経て、とにかくコミュニケーションしなくてはならないたくさんの状況(数々の死線と呼びましょう・・・笑)を潜り抜け、今がありますが、それでも本当に語学を極めるってゴールが見えません。そんな時くるのかしら?って、冗談抜きに思いますもん。話せるようになったって、その言語で仕事、コミュニケーションができたって、試験/面接こなせたって、生活できても、学ぶことはたくさんあるのです。そんな表現あるんだって、日々、学びなのです・・・泣けるほどに。そんなことも、綴りたいですね。
そして、現在は、何を間違えたかフランス語と格闘する日々。。。フランスにいるのに話せないし、分からないし、自分がバカに見えてくる。そんな自分がダメなんだとビクビクしてたこともありましたが、そんな私が遂に「日本語は話せるけど?何なら、英語でも良いよ?(英語くらいわかるよね?)」って言い返せるようになるまでのこと(どんだけ上から笑)なども、綴りたい!誰かに勇気、あげられるかな。
絶賛研鑽中のわたしだから綴れる、英語のこと、フランス語のこともご紹介していきたいです。
とまぁ、しっちゃかめっちゃか、長くなりましたが、これにて、わたしの主要キーワードは挙がったものと思われます。この後は、好きに盲目になりすぎた故に、今となれば笑えるけれども、当時はとんでもなく小っ恥ずかしく、大迷惑だった失敗/ごめんなさい談、現在の愛でたい『好き』に関連して、もっともっと具体的に、渚にまつわるエトセトラを綴っていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。