思えば、遠くへ来たもんだ~Looking back, I've come so far!~

好きなこと、モノしか語れないブログです。

笑って許して~猪突猛進ガール

外出禁止中、在宅勤務中のフランス東部よりこんにちは。Gon.です。Stay safe, stay well!

さて、『好き』の変遷を振り返りましたところで、第1号としてご紹介しますのは、『hideちゃん』のこと。なぜ彼だったのか、何がきっかけだったのか、そんなお話ももちろんしたいのですが、まずはわたしの大失敗、純粋に好きが過ぎて起こったとんでもエピソードを振り返ります。

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猪突猛進タイプなんです・・・

 

hideちゃんのラストライブ、わたしの人生初ライブ

忘れもしない、1998年11月27日。わたしは、人生初となるライブ、hide with Spread Beaverによる、TRIBAL Ja,Zooツアーに参加するため、新幹線に乗り込んで『横浜アリーナ』に向かったのでした。このライブを含めたTRIBAL Ja,Zooツアーは、その年の5月2日に他界したhideの意思を継ぐという目的のもと、hideのソロプロジェクトメンバーであったSpread Beaverによって、フロントマンであり、舵を取るべき船長であったhide不在という前代未聞の状況で開催されました。

hideは長らくX JapanのギタリストHIDEとして絶大な人気を誇っていたことは、今更語るべくもないことですが、わたしとhideの出会いは、彼のソロプロジェクトから。1994年にTELL MEに出会ったことがきっかけでした。TELL MEを歌う、彼の眼力(めぢから)に心を奪われ、ギタリストとしてだけではない、hideの音楽から、hideという人間から目が離せなくなったことを今でも鮮明に覚えています。当時わたしは、中学生。hideちゃんは、言葉にすることが難しい、何となく生きにくいこの世界の理解の仕方、受け止め方、そして壊し方を、誰とも違った角度と優しさで教えてくれた、わたしのあこがれの人でした。いつまでも居てくれるもの。そう思っていた4年後、hideちゃんに会うという機会は、突然にそして永遠に失われることになったです。hideちゃんの死によって。

hideを感じたいと、当時高校生になっていたわたしは、この最初で最後のツアーのファイナルに行かねば!と一大決心をし、準備/根回しを始めたのです。お金もかかりますし、平日に250キロも離れた大都会、東京へ行くなんて、その当時は一大イベントでしたので、計画を立てた後、まずは両親に恐る恐る相談(我が家、絵にかいたような昭和な家族だったのです)。行きたい思いと、立てた計画を手紙付きで説明したと思うのですが・・・、父親には「お父さんには意味が分かない!」の一言で一蹴され、何とか母親を説き伏せて(私のお年玉、おろして~!お父さんには内緒にして!と(笑))。

そして当日。悪いことしているようなドキドキもあったものの、この機会を失ってなるものか!という気持ちの方が強かったわたしは、午後の授業を(初)エスケープして(進学校の女子高に通ってました(笑))、駅のトイレで着替えをし(初)、新幹線で横浜アリーナ(初)へ。コンサート終了後は、東京駅からの夜行バスにて翌朝5時には地元に戻ってくる(初)という、初物尽くしのプラン!

当時、携帯電話もありませんでしたしね。考えてみたら、どうやって計画立て、どうやって移動時間などを考慮して行動したんだろうと考えると、すごいことしたな、という感じは今もします(笑)。

肝心のライブは、それはそれは素晴らしかったと記憶しています。というのも、とにかく楽しくて、満たされたという幸福感だけが今も記憶の中に、胸の中に残っているから。今も思い出せる、自分の居た場所から見た景色、音の洪水と輝くの光の渦と、歓声と熱気、彼らが自分と同じ空間の中にいるという興奮とともに。

ただ、田舎の高校生の完璧(だと思われた)計画には、ライブのお約束という洗礼が想定されておりませんでしたので、この後、一転、悪夢の一夜になっていくのでございます。

想定外!悪夢の始まり

ライブのお約束は、一体いつ、どこで学ぶものなのでしょうか。ネットもないあの時代、誰がライブの開始時間なんて、あってないようなもので、通常押すものなんだと分かるのでしょう?アンコールが、会場の熱とアーティストの気分によってあんなに長く、何度も続くものなのだと、誰が予想できるものなのでしょう?横アリのような大きな会場の移動(特に帰り)には、どの程度の時間を要するのかなんて、みんな最初からきちんと考慮に入れられるものなのでしょうか。新横浜は横浜とは全然関係がなくて、東京駅へのアクセスが悪いんだとか・・・

要は、わたし、乗車すべき夜行バスに乗り遅れたんです(爆)

そんなライブの洗礼は、全く頭の片隅にもなかった田舎の女子高生は、18時開演が、19時を過ぎた時点では(なかなか始まらないなぁ・・・)、始まると夢中で(きゃ~♡)、終了時刻が22時に近づき、多くの人だかりに揉まれて、駅までもまともに歩けない状況になった時に初めて(あれ、これ、ちょっとヤバいかも・・・23時のバスに間に合うかな・・・?)と、焦りが。せっかく仲良くなったお友達との別れの挨拶もそこそこに、人ごみをかき分け、何が楽しくてライブの帰りに本気で駅までダッシュするのか・・・。何とかやってきた新横浜駅から、新幹線で東京駅まで。だって、時間ないのですもの。東京駅へ到着してからも、一路、バス乗り場のある八重洲南口まで、これまた猛ダッシュ。何とか5分間に到着し、ほっとして、お茶を購入してたりしたのがいけなかったのか。肝心の乗るべきバスを探していたら・・・一向にそれらしきバスが見当たらないっ!この時点で、すぐさま誰かに確認すべきだったのですが、ここはバス乗り場だし、バスが遅れているのかなぁなどと戯けたことを勝手に思っており、それにしてもちょっとおかしいなぁと気が付き、キオスクのおばちゃんに確認した時には、時すでに遅し。「そのバス、ここから出発じゃないよ・・・」と。。。

そうです、八重洲南口でも、私の乗るはずだったバスは駅正面から出るものではなく、少し離れた場所から出るというバスで、教えられたバス停と思われる方向に走り出すも、パニックでもあり、横切らねばならないタクシープールでもう方向感覚を失います。それは、大都会東京で1、2位を争うほど大きな駅ですから・・・

今考えても、嫌ですね、こんな状況。そして、どうなったのかと申しますと。

私にとってのミラクル(みんなにとっての大迷惑)、ここから!

ただ、どうしよう、どうしよう!!と夢中だったわたしは、何を血迷ったかちょうど目の前のタクシーから降りてきた、会社員と思しき男性(30代前半に見えたような)に、「夜行バスを探しているんです。バス乗り場が分からなくて・・・」と話しかけていたようなのです(どんな顔して、どう説明したのか覚えてないのですが、とんでもない状況だとは理解してもらえたんでしょうか)。すると、その方、「僕も出張帰りでこの辺りはよく分からないけれど・・・」と言いながらも、一緒に遠距離バスの乗り場がある場所へ向かってくれ、周りの方に、わたしが乗るはずだったバスを行方を聞き始めてくださったのです。と、ここで判明したのが、(もちろん)そのバスはもう出発してしまっている、ということ。

すると、その方、なんと驚くことに、続いてそのバスの次の停留所を確認し始めてくださったのです。そして、「次、上野みたい。追いかけよう!」と、タクシーに一緒に乗りこみ、上野のバス停へと連れていってくださったのでした。

上野でタクシーを降り、その方、そして乗車中に状況を知った運転手さんまでも含めて、いろんなタクシー運転手さんにバスの話をしますが、どなたもバスの情報を知らず・・・そうこうしているうちに、この子(わたし)を家に帰してあげないといけないだろうと、そこに停車しているタクシーの運転手さん一人ひとりに当たりながら、東京から、わたしの地元、福島まで今晩走ることのできる運転手さん探しが始まったのです。

驚いたことに、おひとりの運転手さんが、去年まで長距離のトラックドライバーをしていたから、運転に慣れているとのことで名乗り出てくれ、な、な、な、なんと。高校生にてタクシーで東京―福島間を移動する、ことと相成りました。

親切にここまで連れてきてくださったお兄さんとはここでお別れとなりまして、ここからは、これまた親切なタクシードライバーさんとの旅です。少しお話をし、バックシートで眠りこけてしまったわたしに(疲れたのです、本当に)、途中で停車したサービスエリアで、飲み物を買ってくれ、「おじさんにも同い年くらいの娘がいるから、気持ちが分かるんだよね」と、そう言ってくださった運転手さん。

真夜中、3時前でしたでしょうか。無事に家まで送り届けていただけました。

と、ここで問題になるのが、運賃のこと。。。

運転手さんは、今わたしがいくら持っているのかを聞きた上で(もちろんその金額、13,000円くらいでしたでしょうか、をわたしました)、そして、残りの金額を後日、銀行口座に振り込んでくれれば良いと名刺をくださったのです。感謝しかないですよね、本当に。

もちろん、この後は、こっぴどく父親に叱られ、妹には「バカ」と罵られ、母親に支払いの手助けをお願いせねばならず・・・と、撒いた種をきっちりと回収いたしました。はい。

お父さん、お母さん、ごめんなさい。お兄さん、おじさん、ありがとう!めっちゃ、ライブ楽しかった!

もう20年以上も前の出来事でして・・・携帯電話があれば、インターネットがあれば、こんなことはもう少しうまく立ち回れていたのかもしれませんし、今考えれば、所持金額内で翌日の新幹線チケットと泊まれる場所を手配して、翌日朝に帰宅するという方法もとれたかもしれません。

誰に話しても、良い人たちと出会えて良かったね、とそう言われますし、わたしもそう思います。ミラクルだったなぁと。他人に話しては、驚かれ、大爆笑され、家族には苦笑いされ、我ながら、とんでも珍体験をしたものだとも思います。思いだけで突っ走るとこうなる、いや、もしくは、突っ走った結果、いろんなことがつながって、なんとかなった/この程度(の惨事)で済んだ体験だったのか。もちろん両親へは・・・ごめんないさい、と、当時を思い出しては反省しております。

そして、お顔はもう鮮明には覚えていないのですが、ご自身の出張帰りにもかかわらず、突然話かけてきた、見ず知らずの田舎のとんでも高校生を、バスを追うため、東京駅から上野まで、一緒にタクシーに乗ってくれた(支払いもしていただいた)会社員のお兄様、そしてそこから福島まで送ってくださったタクシーの運転手さんの稀有で、有難い優しさを忘れることはできません。今でも折に触れ思い出し、元気でいらっしゃるかしら・・・と思いを馳せております。

今、当時のhideの年齢を軽く追い越したわたしですが、彼らのような大人になれているかしら?と、記事にまとめながら、ふと考えしまいました。

ただ、いくら省みても、行かなければ良かったという選択肢や気持ちが出てくることはなく、この非日常のワクワク感に憑りつかれてしまってからは、寧ろ、「わたし、東京へ行く!東京へ行って、たくさんライブ楽しむ!」が、進学を決定付ける最重要のものさしになってしまったのでした。